京都府立医科大学 眼科学教室

京都府立医科大学眼科学教室の歩み

 

1)浅山 郁次郎 2)融 礼次郎 3)伊藤 元春 4)小柳 美三
5)増田 隆 6)藤原 謙造 7)弓削 経一 8)谷 道之
9)糸井 素一 10)木下 茂
1)浅山郁次郎教論時代(明治17年4月~明治32年7月)

 

浅山郁次郎 在任期間中の教室の歩み

  明治17年4月に浅山郁次郎を眼科専任教諭に迎え、眼科学教室が開講する。浅山郁次郎は同年9月に療病院兼務を、翌明治20年1月に京都府医学校教諭に追認され、3月には京都府立療病院副院長を拝命した。

明治24年6月に新築された平屋建て西洋館一棟が眼科学教室となり、明治27年5月には眼科部に患者溜室、診察室、暗室、研究室などの他、各診察室が落成した。

  明治31年1月に日本眼科学会総会の準備のための協議会(浅山郁次郎、馬淵秀三郎、益井 信、山田政五郎)が発会し、3月27日に第2回日本眼科学会総会が療病院内で開催された。同年10月に浅山郁次郎は文部省の国費留学生としてドイツへ留学、副院長兼任を解かれた.翌明治32年7月,留学中の浅山郁次郎は京都帝国大学医科大学教授に転出のために退職した。

浅山郁次郎の研究

  日本眼科学会創始者の一人であり、眼病理学、学校保健衛生の面などに多くの業績を残した。日本で最初に報告された研究業績として「日蝕性網膜炎」(明治21年)、「スキアスコープ」(明治22年)、「盲生徒の調査研究」(同年)、「近視の手術的療法」(明治24年)、「結膜の結核」(明治27年)、「表層点状角膜炎」(明治30年)がある。他に『故浅山博士記念論文集』(大正6年)が刊行された。

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2)融 礼次郎教諭時代(明治31年11月~明治35年4月)

 

融 礼次郎 在任期間中の教室の歩み

  明治31年11月に教諭浅山郁次郎のドイツ留学を受けて助教諭融 礼次郎が眼科学教諭に任ぜられ、眼科部長心得を拝命し、翌明治32年4月に眼科部長を兼務した。明治35年5月、融 礼次郎は退職し開業した。

融 礼次郎の研究

  著書に『ランドルド氏視力表』(明治35年)、井上喜久治との共著で『視視力表』がある。日本で早くに報告された研究業績として「眼球突出について」(明治29年)がある。

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3)伊藤元春教諭時代(明治35年4月~大正3年7月)

 

伊藤元春 在任期間中の教室の歩み

  明治35年5月に教諭融 礼次郎の後任として仙台医学専門学校教諭の伊藤元春が教諭に任ぜられ、眼科部長を拝命した。明治36年4月に浅山郁次郎を会長に、第7回日本眼科学会総会が京都市会議事堂で開催された。

明治43年4月に伊藤元春は眼科学研究のために2年間のドイツへ留学を命ぜられ、大正元年10月に帰国するまでの間、講師井上喜久治が眼科部長代理を拝命した。明治44年11月に京都帝国大学教授浅山郁次郎が講師眼科部長を嘱託された。大正3年7月に教諭伊藤元春が退職した

伊藤元春の研究

  著書に『視器中枢診断一覧』(明治27年)がある。他に美甘光太郎の『袖珍眼科学』を校閲する。

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4)小柳美三教諭時代(大正3年8月~大正4年12月)

 

小柳美三 在任期間中の教室の歩み

  大正3年7月に教諭伊藤元春の後任として8月に京都帝国大学医科大学助教授小柳美三が教諭に任ぜられ、眼科部長を拝命した。大正4年12月に小柳美三は東北帝国大学教授に転任のため退職した。

小柳美三の研究

  著書に『眼科診療指針』(昭和2年)、『眼科診療新書』(昭和9年)がある。日本で最初に報告された研究業績として、大正5年の前眼部の特発性葡萄膜炎に脱毛、毛髪白変、難聴等の全身症状を伴う後の所謂「Vogt-小柳型」がある。

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5)増田 隆教授時代(大正5年1月~大正14年12月)

 

増田 隆 在任期間中の教室の歩み

  大正5年1月に教諭小柳美三の後任として東京帝国大学医科大学助手増田 隆が教諭に任ぜられ、2月に眼科部長を拝命した。

大正6年1月に発布された勅令第5号公立学校職員制により教諭、助教諭の呼称が教授、助教授に改められ、2月に増田 隆は(医専)教授に追認された。

大正9年12月に京都府会が京都府立医学専門学校の昇格を是認し、翌大正10年1月に昇格申請を文部省に提出し、懸案であった新大学令に基づく医学専門学校から医科大学への昇格は10月に正式認可された。

大正12年2月に医専教授増田 隆は欧米各国へ出張視察を命ぜられ、9月に帰国するまで柏井忠安が部長代理を拝命した。翌3月に医専教授増田 隆は本学(京都府立医科大 学)教授を拝命し、医専教授を兼任した。

大正13年9月に残留の医専学生が全員卒業し、医専廃止が発表され、10月に京都府立医学専門学校附属療病院は京都府立医科大学附属医院と改称し、増田 隆は附属医院眼科部長、柏井忠安は副部長を拝命した。大正14年12月に増田 隆が病没。眼科部長代理に副部長柏井忠安が任ぜられた。

増田 隆の研究

  著書に『徴毒性眼病学』(大正2年)、『近世日本人眼底図譜』(大正2年)、『近世トラホーム診断及療法』(大正2年)、『網膜黄斑部疾病論』(大正4年)、『臨床眼科診査法』(大正7年)がある。他に田口純一との共著で『外眼病図譜』(大正3年)がある。日本で最初に報告された研究業績として「増田氏型中心性網膜炎」がある。大正6年から増田隆はトラコーマ研究を開始し、日本トラホーム予防協会会誌に連載している。

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6)藤原謙造教授時代(大正15年7月~昭和22年9月)

 

藤原謙造 在任期間中の教室の歩み

  大正15年4月に、前年に病没した教授増田 隆の後任として前台北医院眼科部長藤原謙造が講師に嘱託され眼科部長を拝命し、7月に教授に任ぜられた。

昭和3年1月に柏井忠安が助教授に任ぜられ、昭和9年10月に依願退職するまで在職した。昭和10年には眼科教室同窓会「明交会」が発足した。発足時の会費は1円であった。

  昭和11年1月に弓削経一が助教授を拝命し、12月に藤原謙造が欧米各国に出張視察に出発し、翌昭和12年9月に帰国した。この間弓削経一が眼科部長代理を任ぜられた。

昭和14年8月から昭和17年8月まで藤原謙造は附属医院長の職責を果たした。昭和19年3月に佐野多郎が講師に任ぜられ、伏見分院眼科医長を拝命し、翌昭和20年2月には女専教授に任ぜられた。

足立興一は女専教授と本学講師を兼嘱、5月に弓削経一が女専講師を嘱託され、10月に佐野多郎に代わって弓削経一が伏見分院眼科医長を拝命した。昭和21年2月に女専教授佐野多郎が死去し、9月に弓削経一が女専教授を兼任した。昭和22年4月に今井晴一が眼科副部長に任ぜられ,12月に本学教授藤原謙造が厚生技官として国立舞鶴病院長に転出のため退職した。

藤原謙造の研究

  著書に弓削経一と共著で『大日本眼科全書(15-3)、交感性眼炎』(昭和4年)、同じく弓削経一と共著で『日本眼科全書(20)、交感性眼炎』(昭和30年)、他に『藤原教授開講十周年記念業績集上下巻』(昭和11年)がある。 浅山郁次郎の門下生であり、恩師同様に眼病理学に造詣が深かった。

教室員の研究/業績

昭和18年からトラコーマの集団治療法、症候学的研究が上野 弘、土田 学、清水英二によって、緑内障に関する研究が今井晴一によって行われた。昭和22年に大阪の第51回日本眼科学会総会で藤原謙造が「慢性涙嚢炎について」を特別講演した。

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7)弓削経一教授時代(昭和22年10月~昭和43年1月)

 

弓削経一 在任期間中の教室の歩み

  本学助教授兼女専教授弓削経一は昭和22年11月に本学教授に任ぜられ、12月に教授藤原謙造の退職に伴い眼科部長を拝命した。

昭和23年4月に藤原謙造が文部教官兼任、本学教授に兼補され、5月に上野 弘が女専教授に就任し、弓削経一が女専教授兼任を免ぜられる。9月に藤原謙造は定年によって兼職を解かれた。

昭和25年1月に今井晴一が助教授に就任し、8月に藤原謙造が名誉教授となった。昭和26年3月に上野 弘は予科、附属女子専門部の廃止で退職し、4月に本学助教授に任ぜられ、伏見分院眼科部長を拝命する。

学校教育法により申請中であった新制大学設置許可が昭和27年2月に認可され、本学は新制大学に移行し、旧制大学と併設された。同年11月に京都府立医科大学創立80周年記念式典が挙行された。同月にオシログラフが教室に、12月に高速度遠心沈澱機が伏見分院に設置された。

昭和28年3月に同窓会誌「明交」が創刊された。創刊号は50ページのガリ版刷りであった。昭和29年11月に近畿眼科学会(現日本中部眼科学会)を主催した。

昭和30年にアンダーソン博士よりシノプトフォアが教室に寄贈され、10月に今井晴一が京都第一赤十字病院眼科部長に転出のため辞任し、足立興一が日本眼科文献集編纂及び斜視研究のため助手として入局した。この年、ランディガー、バーカン、カラハン各博士が教室を訪問した。

昭和31年1月に谷 道之が助教授に就任し、4月に弓削経一が病院長に就任した。昭和32年に本学に大学院制度がしかれ、第1回大学院生として根来良夫が眼科教室に入局した。この年に外来4000名、入院病床40床以上となる。

  昭和34年4月に弓削経一が学長に任命された。この年に弓削経一の開講12周年記念事業として業績目録が発行された。

  昭和36年12月に名誉教授藤原謙造が死去し、翌昭和37年には現在の日本弱視斜視学会の母体となった「斜視及び弱視の円卓会議」が弓削経一を中心に本学講堂で第2回研究会を開催した。

昭和38年8月に眼科を含む第3期診療棟が竣工し、診察室、研究室が新館に移転し、10月に第29回日本中部眼科学会が当教室主催で開催された。この年に旧患者は予約制となる。昭和39年4月に色盲の専門外来が開設され、6月に附属病院にアイバンクの開設が許可され、8月から開業した。アイバンク登録第1号は蜷川虎三京都府知事であった。

昭和40年3月にランタンテストを購入し、9月にアイバンクPR用映画製作が決定された。昭和41年2月にPR映画「光をもとめて」が発表され、3月に教室会議で予約受付制導入が決定され、患者一人当たりの診察時間は15分と定められた。4月に東独ツァイス社製光凝固器、手術顕微鏡が設置され、6月に東独ツァイス社製細隙灯撮影装置を購入し、7月にプレオプトフォアが設置された。

昭和42年末、745名のアイ・バンクの登録があった。昭和43年2月,弓削経一が京都市立病院長に転出のため退職し、同時に名誉教授に推薦され、4月に弓削経一退職記念式典が挙行され、「日本の斜視」を記念講演した。

弓削経一の研究

  著作に藤原謙造と共著で『大日本眼科全書(15-3)、交感性眼炎』(昭和4年)、『眼科要綱』(昭和14年)、藤原謙造と共著で『日本眼科全書(20)、交感性眼炎』(昭和30年)、『新トラコーマ読本』(昭和31年)、『トラコーマの病理』(昭和31年)、日本眼科学会より『日本眼科文献集』I、II、III(昭和34~36年)、『斜視及び弱視』(昭和38年)、『幼年弱視』(昭和41年)、『欧米旅日記-医学教育を見つつ』(昭和41年)がある。

涙腺、トラコーマの血清学的診断、交感性眼炎など眼病理を中心にした研究から、教授着任前後から近視など機能疾患へ、さらに斜視弱視の研究を行った。退官までの論文数は147(共著含む)を超える。昭和39年に日本弱視斜視学会の創立に植村 操会長を助け奔走し、昭和47年に日本弱視斜視学会の会長となり、視能訓練士の養成、制度化に努力し,初代の視能訓練士国家試験委員長を務めた。

視能矯正学の第一人者であり日本弱視斜視学会に寄付金を贈り,これを基金として弓削賞が発足した。昭和56年から学会賞を若手研究者の育成のために贈呈している。

教室員の研究/業績

昭和27年から長嶋孝次による導涙機転及び流涙症の治療の研究が開始され、翌昭和28年頃から斜視の研究が弓削経一、足立興一、稲富昭太らによって行われ、我国の斜視研究の発展に大いに貢献した。

昭和29年頃から百々隆夫によって白内障の手術法についての研究が開始された。昭和30年11月に東京の日本臨床眼科学会で弓削経一が「視能矯正成績」について発表し、この年頃から斜視弱視(弓削経一、足立興一、稲富昭太)、角膜移植(弓削経一、百々隆夫、根来良夫、初田高明)、糖尿病(谷 道之、佐野裕志)の3つの研究班が置かれる。

  昭和32年の第11回日本臨床眼科学会「トラコーマのシンポジウム」において弓削経一が講演し、翌昭和33年5月に新潟の第62回日本眼科学会総会で弓削経一が「斜視の治療とそれに関する諸問題」を宿題報告し、同年8月から翌昭和34年1月までChaina Medical Boardの援助によって弓削経一が欧州諸国を視察のため外遊した。

この外遊期間にブリュッセルで国際眼科学会に出席、斜視シンポジウムで研究発表した。同年10月から12月まで上野 弘がカルカッタのアジア保健会議にトラコーマの日本代表として出席した。

この年に従来の予診係、記録係、処置係などの診療体系を廃止し、一患者に対し一医師が全て検査から診断処置に至るまで責任を持って当たる体制を整え、同時に専門外来が開設された。発足当時の各分野の主任は白内障が百々隆夫、緑内障が今井晴一、眼底疾患が谷 道之、色覚が深見嘉一郎、ブドウ膜疾患が弓削経夫、角膜疾患が根来良夫、斜視が足立興一と稲富昭太、コンタクトレンズが根来良夫、暗順応障害が富井 宏、他に中心性網膜炎があった。

  昭和39年に糖尿病網膜症の研究が谷 道之、藤沢洋一によって行われ、螢光眼底撮影法による診断及び光凝固による治療が開始され、同年の第68回日本眼科学会総会で足立興一が「弱視に関する研究」の宿題報告を、谷 道之が「糖尿病性網膜症の発症、進展について」を発表した。

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8)谷 道之教授時代(昭和43年6月~昭和51年11月)

 

谷 道之 在任期間の教室の歩み

  昭和43年2月に教授弓削経一が転出した後を受け、6月に本学助教授谷 道之が教授に就任した。同年7月に百々隆夫が助教授に任ぜられた。

昭和44年2月に分校学生自治会、専門課程学生自治会が無期限ストライキに突入した。教授会会議室に百数十名の学生が乱入し、全教授を記念会館内に軟禁する事件が起こった。3月に大学閉鎖が公示され、9月に大学閉鎖が解除されるまでの6ヶ月間、授業が中断した。

昭和45年3月に百々隆夫が退職し、4月に根来良夫が助教授に就任し、9月に谷 道 之が病院長代行に選出された。昭和46年10月に臨床医学学舎が竣工し、眼科学教室の教授室、医員室、研究室が新館に移転した。昭和47年11月に京都府立医科大学創立百周年記念式典が挙行された。

昭和48年6月に弓削経一がモントリオールの国際病院会議と約1か月間の欧米の病院視察のために出発し、7月に帰朝講演を行った。同月に谷 道之が病院長に再任された。昭和49年5月に谷 道之、稲富昭太がパリの第22回国際眼科学会に出席し、7月に帰朝報告研究会を開催した。

昭和50年7月に谷 道之が病院長を退任し、12月に根来良夫が京都市立病院に転出のために退職した。昭和51年1月に深見喜一郎が助教授に就任し、3月に谷 道之が附属医療センター所長を退任、同年11月に谷 道之が済世会京都府病院長に転出のため退職した。

谷 道之の研究

  著書に『小眼科書』(昭和40年)、分担著述に『外傷性頚腕症候群』(昭和44年)、『糖尿病眼底』(昭和45年)、『糖尿病のすべて』(昭和46年)、他に稲富昭太、深見嘉一郎、糸井素一、可児一孝、山本敏雄、赤木好男、佐々本研二との分担著述の『小眼科学』(平成3年)がある。

日本において初めて網膜のフルオレセイン血管撮影を藤沢洋一とともに行い、糖尿病網膜症の第一人者であった。しかし教授就任の翌年に始まった学園紛争は熾烈を極め、谷 道之は院長として精力的に対処、病院管理学への造詣を深めた。

教室員の研究/業績

  昭和45年5月に神戸の第74回日本眼科学会総会で谷 道之が「眼底写真による知見-蛍光眼底写真-」を宿題報告した。昭和51年5月に谷 道之が長崎の第80回日本眼科学会総会でシンポジウム「糖尿病性網膜症臨床像について及びPrediabetesについて」を担当した。同年6月に第19回日本コンタクトレンズ学会を京都府立文化芸術会館で主催した。

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9)糸井素一教授時代(昭和52年4月~平成3年3月)

 

糸井素一 在任期間の教室の歩み

  昭和52年6月に谷 道之の後任として順天堂大学助教授糸井素一が本学教授に就任した。

昭和53年4月に稲富昭太が滋賀医科大学眼科学講座教授に就任し、同月に深見嘉一郎が西独ミュンヘン工科大学へ客員教授として半年間の予定で留学した。同年5月に第23回国際眼科学会が京都で開催された。

昭和54年1月に糸井素一、島本史郎が医療事情視察のため厚生省より沖縄に派遣された。同年4月に糸井素一、山本敏雄、久山 元が学会出張のため米国へ出発(翌月帰国)し、8月にゴールドマン型スリットランプ(ハーグ社)が明交会講演会より教室に寄贈された。

他に斜視、糖尿病、緑内障、白内障、角膜、網膜、コンタクトレンズ、神経眼科、アレルギー、色覚、暗順応、ブドウ膜の専門外来の充実が図られた。この年に深見嘉一郎が福井医科大学眼科教授に内定した。昭和55年にはシノプトフォア、角膜移植用電動トレパン他、多数の臨床機器が教室に寄贈された。

  昭和56年3月に谷 道之が名誉教授に就任し、同月に深見喜一郎が京都第一赤十字病院眼科部長に就任のため退職し、4月に山本敏雄が助教授に就任した。同年9月に眼科第二研究室に電子顕微鏡(JEM-100S型)が設置された。この年に本学の整備計画が始動し、中央診療棟、小児医療センターの新築工事が開始された。

研究面においては形態学と視覚生理学の2つの研究班が作られた。昭和57年に中央診療棟が竣工し、眼科手術室に天井懸架手術用顕微鏡(ツァイス社製)、超音波白内障手術装置(キャビトロン社製)が、他にアルゴンレーザー光凝固機が設置された。同年12月に第48回日本中部眼科学会を主催した。

昭和58年3月に深見嘉一郎が福井医科大学教授に就任した。昭和59年3月に糸井素一、小玉裕司が国際協力事業団からの命令でスリランカを訪問し、角膜移植及び角膜熱形成の技術移転に協力した。同年6月に京都府立医科大学眼科教室開講百周年記念祝典が挙行された。同月に糸井素一が編集する月刊雑誌『あたらしい眼科』が創刊された。

昭和62年12月に名誉教授弓削経一が病没し、昭和63年6月に稲富昭太が滋賀医科大学副学長に就任した。平成元年12月に元助教授柏井忠安が死去した。平成2年5月に赤木好男が助教授を拝命した。平成3年3月に糸井素一が明石市立市民病院長に転出のため定年を前にして退職した。

糸井素一の研究

  角膜の研究、特に円錐角膜の治療で有名である。著書に『レーザー視覚検査法、レーザー医学-基礎と臨床-』(昭和55年)、『ユニット眼科学』(昭和60年)、分担著述に『レーザー眼科学』(昭和58年)、『標準眼科学』、『眼科MOOK,No.20』、『ハードコンタクトレンズ処方と苦情処理』、他に谷 道之、稲富昭太、深見嘉一郎、可児一孝、山本敏雄、赤木好男、佐々本研二との分担著述の『小眼科学』(平成3年)がある。広い視野でMTFなどのME機器、白内障にも研究領域を広げ、雑誌『あたらしい眼科』の編集者として眼科雑誌を創刊した。

教室員の研究/業績

  昭和52年4月に弓削経夫、谷 道之が第81回日本眼科学会総会で「ナフタリン白内障の発生機序」を講演し、9月に糸井素一が「薬剤による眼の障害シンポジウム」に出席、講演のため渡米(同月帰国)した。

昭和53年5月に第23回国際眼科学会が京都で開催され、弓削経一が第3回国際斜視会議のLocal Organizing Committeeの会長を勤め、谷 道之が第3回代謝異常眼疾患・第1回小児眼科国際合同シンポジウムを、糸井素一が第1回国際角膜研究会をそれぞれ主催した。

昭和54年5月に糸井素一がシンポジウム「弱視の病態・生理」、足立興一が特別講演「視覚の先天性・後天性」を京都の第29回弱視斜視学会で講演し、6月に糸井素一が横浜の第22回日本コンタクトレンズ学会で「角膜形状の自動診断とコンタクトレンズ」を特別講演した。

昭和57年10月に糸井素一、佐々本研二、森川 明、小玉裕司らがアメリカでの国際眼科学会に出席し講演し、翌昭和58年5月に糸井素一が「角膜疾患の診断と治療-円錐角膜を中心として-」を第87回日本眼科学会総会で宿題報告した。昭和61年に稲富昭太が第90回日本眼科学会総会で「弱視・斜視・両眼視機能に関する諸問題」を宿題報告した。

昭和63年3月に糸井素一は第92回日本眼科学会総会シンポジウムで「角膜疾患治療・最近の進歩」の講演を、7月にインドネシア眼科学会で「白内障の治療」を特別講演した。平成元年4月に赤木好男は第32回日本糖尿病学会総会シンポジウムで「ガラクトース血症イヌと糖尿病性網膜症」を報告した。

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10)木下 茂教授時代(平成4年4月~現在)

 

木下 茂 在任期間の教室の歩み

  1年間の教授空白の期間を経て平成4年4月、大阪大学講師の木下茂が教授に就任した。同年に第1回京都府立医大眼科関連病院懇話会が開催、そして明交会理事会の充実がなされた。

平成5年に滋賀医科大学副学長稲富昭太、福井医科大学眼科学教授深見喜一郎が退官した。同年6月、助教授の赤木好男が福井医科大学眼科学講座教授に就任のため退職し、7月に前田耕志が助教授に就任した。

平成6年に京都府立医科大学眼科学教室は開講110周年を迎えた。同年2月、池田恒彦が講師として大阪大学眼科学講座より着任した。平成7年3月助教授の前田耕志が実家継承のために退職し、4月に池田恒彦が助教授に昇進した。平成11年4月、助教授の池田恒彦が大阪医科大学眼科学講座教授に就任のため退職し、同年5月、横井則彦が助教授に昇進した。

平成4年4月以降、前田耕志、池田恒彦、溝部惠子、横井則彦、外園千恵、森和彦、佐野洋一郎らが講師として勤務した。この間、木下茂は、平成11年4月から京都府立医科大学医療センター長を2年間、京都府立医科大学付属脳・血管老化研究センター神経化学・分子遺伝学部門教授を4年間兼任した。

さらに、平成14年4月から京都府立医科大学付属病院中央手術部長、平成15年4月から治験審査委員会委員長、病院長補佐を兼任している。海外では、Schepens Eye Research Institute (Harvard Medical School付属研究機関)のAdjunct Clinical Senior Scientistも兼任している。

  学会幹事校として、平成7年に第19回角膜カンファレンス・第11回日本角膜移植学会(参加者約500名)、平成9年に第33回日本眼光学学会・第12回眼科ME学会(参加者約400名)、平成10年に第41回日本コンタクトレンズ学会(スリーサム・イン京都)(参加者約1200名)、平成13年に第55回日本臨床眼科学会(参加者約5900名)、平成14年日本眼感染症学会(参加者約300名)、平成15年に第26回日本眼科手術学会総会(参加者約3900名)を開催した。

  海外からの長期留学生としては、張徳秀(中国)、鄭小紅(中国)、Jurgeon Kovacs (ドイツ)、賀玖成(中国)、Andrew J Quantock(英国)、Halit Oguz(トルコ)、Che Connon(英国)、Samet Ermish(トルコ)らを迎え入れた。

木下 茂の研究/業績

  角膜の研究、特に難治性角膜疾患の治療と屈折矯正手術に精力を傾け、アイバンクの充実にも情熱を燃やしている。教室の研究は角膜,緑内障,網膜・硝子体,視機能の4分野に大きく分け、新しい治療法の開発を目指している。

平成4年以降の編著に『角膜疾患への外科的アプローチ』、『眼科研修医マニュアル』、『眼表面疾患の診療』、『眼科検査法』、『眼科ベーシックポイント』、『角膜疾患の細胞生物学』などがある。平成4年4月以降、米国フロリダ州で開催されるARVOには教室員が毎年多数の演題を報告し、海外との積極的な交流を行っている。

主たる学会発表としては、平成6年に第98回日本眼科学会総会で「調節障害の病態と治療」を宿題報告、平成7年に第61回日本中部眼科学会で「角結膜上皮:創傷と修復」を特別講演、平成11年に第22回日本眼科手術学会で「難治性角結膜疾患への外科的挑戦」を特別講演、第48回四国眼科学会で「エキシマレーザーの基礎と臨床応用」、平成14年に第106回日本眼科学会総会で「ocular surfaceの再生医学」を宿題報告した。

平成11年、Alcon Research Institute Award、平成14年、日本医師会医学研究助成費を授賞した。

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