京都府立医科大学 眼科学教室

眼科開講120周年記念誌

大学・眼科教室の沿革

眼科開講120周年記念誌

120周年記念誌の発刊にあたって   木下 茂

 1872年(明治5年)11月、京都府立医科大学の前身である京都療病院が粟田口青蓮院に開院し、その12年後の1884年(明治17年)4月には、早くも眼科初代教諭として浅山郁次郎が赴任し、眼科が開講されている。それから歴代教授10人の時代を経て、平成16年3月末で開講から120年の時を経たことになる。このように開講120周年を無事に迎えられたことはまことに慶ばしく、我々は、ここに眼科学教室の史実を纏めた冊子体を発行し、後世に引き継ぐこととした。各々の大学は独自の校風を持ち、それぞれの教室も独自の文化的土壌を形成し、この独自の校風と土壌の中で、若き医師、若き研究者たちは大きく育っていく。この校風と土壌が、各々の大学そして教室が持つ伝統であり、学術的成果と密接に関わってくる。我々、京都府立医科大学眼科学教室(府立医大眼科と呼ぶ)にも、120年の長きにわたり引き継がれてきた伝統があるはずであり、それをしっかりと確かめて現在を生き、そして未来に、医学・医療を取り巻くカオスの中に、踏み込んで行く必要がある。私は、府立医大眼科の伝統は、眼科学教室とともに「明交会」(府立医大眼科同窓会)のなかにも生きていると考えている。6月初旬の京都眼科学会、9月23日の明交会同窓集談会、そして12月第三週土曜日の明交会忘年会、いずれにも30%以上もの明交会員が自ずと集まってくる。老若男女を問わず親交を深められる明交会の集まりは誰にとっても至福の時間であり、このような交流をとおして伝統が受け継がれているものと感じている。

 奇しくも、平成16年4月は旧国立大学や医療環境にかかわる大変革の時となった。旧国立大学は独立行政法人へと組織変更し、公立大学も似通った組織変更を行っていくと予想されている。府立医大はというと、府立大学との統合、あるいは一法人二大学の可能性などが議論されており、独立行政法人化とともに大学統合も視野に入れた行政的な最終決断の段階に入りつつある。ただ、府立医大には大学としての機能とともに、府立病院としての重要な機能があり、他大学とはいささか異なった環境にあるというのが私見である。卒後臨床研修システムは新たなスーパーローテイト方式として始まった。しかし、眼科のような選択科を希望する医師の受け入れ態勢が未整備などの多くの問題を抱えている。

 さて、歴代教授そして眼科学教室が大学にどのような貢献をしてきたのかを振り返ってみる。昭和20年以降の戦後を回顧してみると、第7代教授の弓削経一は学長として、府立医大の困難な時期の舵取りをした。第8代教授の谷道之は病院長として関連病院建て直しに辣腕を振るい、さらに府立医大学友会長を永らく務めた。第9代教授の糸井素一は、中央手術部長などの要職を歴任した後、関連病院の一つである明石市民病院長の重責を果たした。いずれの教授も大学に多大なる貢献をしているのである。眼科学教室はというと、教育・研究のみならず診療でも常に府立病院を代表する科の一つであり続け、高い評価を受けてきたと確信する。実際、近年、府立医大眼科学教室は、第95回日本眼科学会総会、第55回日本臨床眼科学会、第26回日本眼科手術学会などの大きな学会を開催しており、名実ともに伝統ある教室として成長してきたのである。

 それでは、現在の府立医大眼科が目指している目標を語ってみよう。我々は、教育、診療、研究という臨床教室の三本柱の職責を、時間軸である過去、現在、未来と重ね合わせて考えている。教育は今までに確立してきた診療(過去)の伝承、診療は現状の知識と技術による診療サービス(現在)、研究はこれからの診療にかかわる研究開発(未来)ということになる。いずれもが最高の診療を行うことに繋がってくる。府立医大眼科は「臨床の府立」と呼ばれるべく努力する集団でありたいと願っている。この願いは120年前に遡っても同じである。これに加えて、今を生きる我々は「府立医大眼科」というブランドを大切にし、さらに「be international」というコンセプトを掲げている。世界のトップ医療機関の一つとして数えられるような高度な治療が出来る眼科を目指す、これが努力目標である。

 巻頭言の最後になるが、本冊子を刊行するに当たり、明交会の方々の温かいご支援に厚く御禮を申し上げる次第である。また、府立医大の関係各位、日本眼科学会の関係各位の日頃からのご指導とご鞭撻に深謝する次第である。120周年を節目として、先達の行跡を回顧することで、未来へ向かう大きな原動力を得られれば、望外の喜びである。