眼科学教室創立までの眼科
眼科学教室の創立までの眼科
明治5年に創設された京都療病院に初代医学教師として招聘されたヨンケル(Ferdinand Adalbert Junker von Langegg(1828-c.1901))は、その履歴に眼科学修士号の取得が明記され、彼による眼科学講義が行われた可能性が高いと推測される。
『京都療病院治療則』には眼疾患の診療記録が残っており、この時代から眼科患者の入院治療が行われていた。さらにヨンケルに続く外国人教師、マンスフェルト(C. G. van Mansvelt(1832-1912))、ショイベ(Heinrich Botho Scheube(1853-1923))もヨンケル同様に眼疾患の診療を行った。最後の外国人医学教師ショイベが京都を去ったのは明治14年12月であった。その後、眼科学の専任教師が正式に迎えられたのは明治17年4月のことである。
この間、眼科診療を担当した医師には江馬章太郎、真島利民、中田彦三郎、そして流行性感冒と眼病の関係をはじめて報告した山田政五郎らがいた。彼らは当時京都で発刊された『療病院雑誌』(明治12年3月~明治14年6月)、『医事集談』(明治12年3月~明治13年9月)、『京都医事雑誌』(明治18年4月~明治20年5月)、『京都医学会雑誌』(明治21年1月~明治34年7月)などの医学雑誌に投稿を重ね、眼科学の基礎の確立に寄与した。